10月4日(月)ゼーバルト『土星の環 イギリス行脚』を味わう

   ゼーバルト土星の環 イギリス行脚』を味わう

                             富岡知子

 筆者を思わせる「私」が、イギリスの南東部サフォーク州を徒歩で旅する。旅は次にどこに何しに行くかを読者にはっきりさせないで、その時その時の景色の感想やホテルの食事や体の疲れ具合などが綴られる。その間に、あまたのエピソードが差しはさまれる。

 エピソードは、古くは紀元前の中国での養蚕の始まりから、昨年のオランダ旅行、17世紀トマス・ブラウン、18世紀ヴィクトリア朝の憂鬱質の文筆家アルジャーノン・スウィンバーン、20世紀初頭のコンゴでの残虐な植民地政策を公にしたロジャー・ケイスメント、19世紀後半の太平天国の乱と西太后と皇帝たち、数年前主人公がしばらく滞在したアイルランドの、アイルランド抗争で没落した領主階級の家族、数か月前相次いで亡くなった二人の学究や隣人など、あるいは、森林が伐採された土地、取れなくなった鰊、振わなくなった養蚕業と絹織物産業にも触れられている。

副題に「イギリス行脚」とあるが、地名を地図に落としてみたら、旅したのは、南北40キロ、東西20キロくらいの地域で、5泊の小旅行だ。旅の始まりから筆が起こされ、旅が終わるときに、筆が擱かれる。「私」は栄華を誇ったが今は廃れた屋敷や海に浸食された街や墓地を廻る。わざわざ、そういうところを見に行く。どう思ったのか、は極力書かないで、動画のように、経験した事物の有様を描写していく。

冒頭、最初のページ。

 1992年8月、シリウスの日々が終わりに近づこうというころ、私は大きな仕事をひとつやり終えた後に身内にひろがってくる空虚をなんとか逃れられはしまいかという思いから、イースト・アングリアのサフォーク州を徒歩で行く旅に出た。p.7

 

いずれにせよそれからの一時、私の心はあの素晴らしい自在の記憶とともに、痺れるような恐怖感――それはこれほど鄙びた地方にすら残されている、はるかな過去に遡る破壊の痕跡を目の当たりにしたおりおりに襲ってきた恐怖感だった――に、ふたつながら占められていたのだった。P.7

 

 翌朝、リュックサックを肩にホテル・ヴィクトリアを出てみると、空は雲ひとつなく、ロウストフトは息を吹き返したようだった。用済みになってもはや仕事がない漁船が何十隻と舫いでいる船寄せのそばを通りすぎて南へ、渋滞がひきもきらず、排気ガスがしじゅう薄青くたちこめている街道を歩いていった。十九世紀に建てられたきり一度も修復されたことのない中央駅までやって来たときに、他の車にまじって、花輪を載せた黒塗りの霊柩車が滑るようにそばを通り過ぎた。中には葬儀社の社員がふたり、ひとりは運転手、もうひとりは付き添い役として畏まった顔つきで乗っている。後ろのいわば荷物席には、現世と別れて程ないらしいどこかのだれかが、晴れ着をまとい、小さな枕をあてがわれ、両眼を閉じ両手を組み、両方の靴の先を上に向けて、棺に横たわっているらしかった。霊柩車のあとを眼で追っていると、ふと、二百年前に書かれたある物語に出てくる、トゥトリンゲンの旅職人の話が甦ってきた。その昔、アムステルダムでは知らぬ者のない大商人(とはじつはその徒弟の思い込みだったのだが)の弔いの列に加わったそのドイツの旅職人は、片言隻句わからぬオランダ語で唱えられる弔いの文言に恭しく耳を傾けながら、深く心を揺さぶられた。それまでは豪華なチューリップやストックやアスターの咲きこぼれる窓辺に眼を瞠り、陸揚げされたはるか東インド渡りのお茶や砂糖や香辛料や、米の詰まった櫃や梱や樽をうらやみの眼で眺めたものだった。だがそれからというもの、この旅職人は、これだけ世をあちこち旅して廻ってもなぜ自分はこうも食い詰めているのだろうと心が重くなるたびに、きまって葬列に加わったアムステルダムの大商人のことを思うようになった。その人の宏大な屋敷、豪華な船、そして狭々しい墓を。へーベルの書いたこの物語を脳裡に浮かべながら、私はいたるところに衰微のしるしを見せている町を出た。全盛期にはイギリス最大級の漁港だったばかりか、(もっとも体によい)海水浴場として、国境を超えて名を馳せた町であった。P.47,48,49,50

 

 今日、この書き物を終えようとしているこの日は、1995年4月13日である。イエスが弟子たちの足を洗ったという洗足の金曜日、そして殉教者聖アガトン、聖カルプス、聖パピルス、聖ヘルメネジルドの日である。いまからきっかり397年前の今日、アンリ四世によりナントの勅令が出された。253年前、ヘンデルのオラトリオ《メサイア》がダブリンで初演された。223年前の今日、ウォーレン・ヘイスティングがインド、ベンガルの知事に任命された。プロイセンでは130年前の今日、反ユダヤ主義同盟が設立され、76年前の今日、インドのアムリトサルで、ジャリヤ―ンワーラー広場に集まっていた一万五千人の蜂起した民衆に向かってダイヤ―将軍が見せしめのために発砲、虐殺が起こった。そのときの犠牲者の少なからぬ人々が、当時アムリタサルあたり、いや、インド全土ですこぶる簡素な方法で広まりつつあった養蚕に従事していたことだろう。50年前のこの日には、ドイツでツェレ市が陥落し、赤軍がドナウ河沿いに着々と進撃を続けるのに対しドイツ軍は後退の一途にある、とイギリスの新聞が報じた。そう、そして最後に1995年4月13日の洗足木曜日、朝はまだ私たちの知るところではなかったが、クララの父がコーブルクの病院に運ばれ、ほどなくこの世を去った。これを綴っているいま、ほとんど災厄ばかりからなっている私たちの歴史を顧みながら、かつての上流階級の夫人たちにとって黒絹タフタの重いローブや黒いクレープデシンを身に纏うことが、深い哀悼にただひとつ相応しい表現だとされていたことが思い起こされる。P274、275、276

 

 不思議なのは、エピソード群は旅した土地と結びついて、並置されている。重なって、深まらない。地理だから、ということもあるかもしれないが、エピソードが次のエピソードのきっかけや因果になるのではない。エピソード群同士は並置で、かつ、「私」の身体の経験に織り込まれる。徒歩旅行という鎖で連結されたひとつ一つのチャーム(飾り)のようだ。あるいは、博物学的な採取に近い感じだ。エピソードそれぞれは、(まとめるのは難しいが)、人物が中心で生まれから人となりを書きこんであるものが多い。物語ではなくて、書き物という語が使われているのも腑に落ちる。

並置については、トマス・ブラウンについての記述が参考になる。

 

距離が大きくなればなるほど、視界はくっきりとしてくる。もっとも微小な細部が、これ以上ないほど克明につぶさに見える。望遠鏡を逆さまにしたものと顕微鏡とをいっしょに見るようなものだろうか。だが、とブラウンは言うのだ、あらゆる認識は見通しのきかぬ闇に囲まれているのだ、と。われわれの知覚するものは、無知の深淵のなか、濃い影を蓄えた世界という殿堂にまばらに灯った明かりにすぎない。われわれは事物の秩序をさぐるが、だがその内奥の本質を捉まえることはできない、とブラウンは言う。したがってわれわれの哲学は、ごくつつましい文字で書くべきなのだ。うつろいやすい自然の略字体や速記文字である形姿を用いてしか、書くことはゆるされていないのだ。それらさまざまな形姿のなかにのみ、永遠はかすかに映っているのである。この心がけに忠実に、ブラウンは数かぎりないと見える形の多様性のなかにときおり反復される一定のパターンを記録している。P23、24

 

 事物の秩序をさぐるが、内奥の本質は捉まえられない。しかし、さまざまな形姿に、数かぎりない形の多様性になかに、かすかに、ときおり見出せる。そういう手つきに、筆者も同調している。

 

 たとえば、今見る廃墟に往時の人を追想する。追想することによって、心の空虚を埋める。現在に廃墟の兆しを重ねてしまう。今ある風景もまた荒廃の種をはらんでいると思う。だから恐怖を感じもする。空虚へと近づく。廃墟という結末と、兆しという始まり、結末と始まりの往還運動は、途絶えないし、どちらでもない、深まる性質ではない、という考えはどうだろう。

 また、たとえば、人生は一通りの区切りがついても、生きている限りまだ続く。生きているうちは、人生に結末がないことも考えていたのだろうか。あるいは、物語は一通りの結末を迎えても、人生は終わらない。経験は無駄にはならないが、深まっていると言えるだろうか。経験を忘れてしまったりするし、そのひとの底の質は変わらないという考えはどうだろう。

 

 シャトーブリアンの回想録「墓のかなたからの回想」について

想起という作業全体のなかでも、戦場の光景や作戦の展開のこのような生彩に富んだ描写は、ひとつの禍いからべつの禍いへとよろめいていく歴史の、いわばハイライトをなしている。その場に居合わせ、その眼がかつて見たものをいまひとたび甦らせる年代記の書き手は、わが身を切り刻みつつ、自分の経験をみずからの身体に書き記すのだ。こうして、書くことによって天意が人に下す運命の殉難者の一典型となった彼は、生きながらすでに泉下にあったのであり、回想録はその墓なのである。過去を取り戻すこの行為の終わるのが救いの日であることは、はじめから定まっていた。シャトーブリアンの場合は、1848年6月4日である。この日、ド・バック通りの館の一階で、死が彼の手から筆を奪った。P243

 

 エピソードで人物を描くとき、「回顧録」からの引用が多いのも気になった。小説からではない。対象者が作家じゃないから小説を書いてない。回顧録とこの書き物とは相性がいいのだろう。

 さて、エピソードの中では、アイルランドのアッシュベリー家の零落が心に残った。このように零落していくのかと思った。数年前に「私」は屋敷にしばらく滞在したことがあった。アイルランドの領主階級であったが、アイルランド抗争後何十年かで零落した。農業は振るわなくなり、労働者への賃金が払えなくなり、作付けと収入は減る一方。屋敷のペンキははげ、壁紙がはがれ、カーテンは縫い目ばかり目立ち、椅子は布地が擦り切れ、そこら中雨漏りがして、やがて上の階、そして一棟ごっそりだめになり、使わなくなった階はやがて床板が反り返り、屋根の木組みが沈み、羽根板や階段室があるとき一夜で崩れ落ちる。長雨や長い日照りの後、いや天気が変わっただけで、ある日突然、がらがらと崩れ落ちる。居場所を明け渡さざるを得ない。賃金が払えなくなったので農業をやめ、領地を少しずつ切り売りしてしのぎ、使用人を雇えなくなり、銀食器や磁器を競売に出し、絵を売り、蔵書を売り、家具を売った。荒れる一方の屋敷には買い手がつかない。娘たちは毎日パッチワークをして、数日後にはそれをほどいてしまうことを繰り返す。息子は、義務教育を終えると、家にいて、毎日船を作る。正式に船の作り方は教わったことはないし、水に浮かべるつもりもない。――

 ヨーロッパの地誌の感覚も、面白かったところだ。たとえば、イギリスの東の端は、海を隔ててオランダ。海戦もあった。もちろんイギリスの南部はフランスと近い。ナントの勅令で、ユグノー教徒がイギリスからフランスに戻ったり、勅令廃止で、フランスからイギリスに難民としてイギリスに渡った。オランダの東はドイツ。バルカン半島クロアチア人によるセルビア人虐殺。セルビア人青年による皇太子暗殺で第一次世界大戦勃発。アイルランド抗争とイングランド

 

 先の、トマス・ブラウンにもどれば、多様性を示すエピソード群のなかで、かすかに映ったものは、なんだろう。世間からは自然と逸れていってしまう人、没入して、世の趨勢から遠ざかっていった人達だろうか。それらは「私」の心の奥にあるものと触れあっている。何かを抽出するのではなくて、多様性の中に「私」をも並置して、ともに在ると思うことで、心をほぐしているのかもしれない。

 

 

W・G・ゼーバルト 著  鈴木仁子 訳 『土星の環 イギリス行脚』 白水社