11月25日(木)『皆のあらばしり』

きのうは、午前中、松山下体育館でリードクライミング2時間。帰りに図書館で「新潮」10月号を借りて、午後、『皆のあらばしり』乗代雄介を読む。頭の快感。

 

地誌とメンター(師)と最後にぐるっと見方が変わる、のは特徴になっていくのか。

読み終わって、また最初から読みたくなる。

 

以下、結末のことも書いています。

 

最後、この綴りものを書いた人が登場人物であるという構図を明かして、登場人物が読者に語りかける。登場人物は作者じゃない。作者との関係をはっきりさせている。そして、うすうすわかっているのだが、もちろん、書いたのは作者だから、虚構が意識される。

普段読むとき、作者とおぼしき登場人物が出てくる場合、実際にあったことを書いたのかどうか、まあそこは、書かれたものだから虚構ですよね、というあいまいな了解を持って読んでいる。

最後に差し掛かるまで、あいまいな了解で、地誌の魅力と描写などの筆力を読んできて、主体が違っていたと明かされ、一つのジャンプ。登場人物と作者の一つのジャンプ。まだあるかな。

これから私が語るのは、という、登場人物が過去を振り返る構図の物語は、昔の小説でよくあった(ように思う)。それを最後にされている。それがこんなに心地よいとは。今読者が読んでいるこの綴りものは、作者とどういう位置にあるかを示して逆にあいまいな了解を刺激するからだろうか。