1月12日(水)『水と礫』/『カンポ・サント』

きのうは、午前中はモスバーガーに行く。午後はバイト。きのう、一昨日で『カンポ・サント』『水と礫』を読了していた。

 

『水と礫』藤原無雨著 (河出書房新社)は保坂氏が推奨していた。こんな小説読んだことがないというふうに紹介していたと思う。保坂氏はパラレルワールドに興味があるようなことも言っていた。

以下、ネタバレ含みます。

同じ登場人物で設定の少し違うバリエーションが描かれる。主人公となる人物の親、その上の祖父、子、孫たちの、仕事と配偶者との出会いと結婚、主人公の親友。読後は、登場人物たちのだいたいのことが記憶として残る。実際の記憶ってこうかもしれない。人名はまあ間違えないけど、覚え方が違っていることってある。あそこにいたんだったっけな、こっちであった人だったっけ。記憶違いを受け入れて把握する大まかな家系図だ。あるいは、多くの人が記憶していてちょっとずつ違うことを並べた家系図。読んでいて最初、同じことがまた書かれていると思ってびっくりした。すこし違う世界が連なっていくと折り合いをつけた。
いろいろな登場人物の視点の「藪の中」じゃなくて、地が違う世界というのが、読者をゆさぶるのかもしれない。
私は、前に書かれた設定世界を忘れてとりあえず、今読む設定世界に没入した。読み終えてみると、人生は仕事と配偶者との出会いと心の底に秘めた思いにつづまるかもしれない。お葬式でお坊さんが故人のことを話すように。それでも、なにかないかと、思ってしまう。

 

『カンポ・サント』は、作者の死後に編まれた散文やエッセイ集だ。    

「回復のこころみ」の中から、長くなるけど引用する。

 

 ……彼は知っていたのだろうか、祖国が彼の思い描いた平和な美しい未来像から背を向けて、やがて彼のような人間を監視し、幽閉するようになることを、そして彼の居場所が結局あの塔のほかはなくなってしまうことを(狂気に陥ったヘルダーリンは後半生の三十年余をテュービンゲンの通称〈ヘルダーリン塔〉で過ごした)。文学がなんの役に立つのか。

役に立つとすればおそらくはただ、想い起こすことに、そして奇妙な、因果律によっては究明できない連関があることが理解できるようになることに。たとえばかつての居住都市、のちの工業都市シュトゥットガルトと、七つの丘の上にひろがるフランス・コレーズ県の都市チュール―――「気取った町です、この町は」とここに住む女性が以前私に書き送ってきたことがある―――との連関を。ヘルダーリンボルドーへの途上でこの町を通った、そして1944年6月9日、つまり私がヴェルタッハのゼーフェルダー館でこの世の光を見てからちょうど三週間後、またヘルダーリンの死から百一年後のほぼその日、報復をはかるナチスのSS師団〈帝国〉によって町の男全員が武器工場に駆り集められた。そのうち九十九人のあらゆる年代の男が、いまもチュール市の記憶に翳を落とすこの暗い一日に、スイヤック営舎の街灯やバルコニーの手すりに吊るされて死んだ。残りの男たちはナッツヴィラーやフロッセンビュルクやマウトハウゼンといった強制労働収容所や絶滅収容所に送られ、多くの者が石切り場で死ぬまで酷使された。

 とすれば、文学は何のためにあるのか。「わたしもまた、あの幾千のひとびとと同じさだめを受けるのか?」とヘルダーリンは自問する。「彼らはその春の日々には予感し愛しながら生きたのに、 / 酔いしれた日に、復讐するパルツェたちに捕らえられて / 声もなく、歌もなく、ひそかにあの深いところへ引き下ろされ、 / あまりにあじけないあの国のなかで、闇のなかで、あがないをしているのだ。 / そこでは、いつわりの光のもとでうろたえた群れがうごめき、 / 遅々と過ぎゆく時の歩みを氷と枯渇だけによって数えていて、 / ただ嘆息のなかだけで、人間は不死のものたちを讃えるのだ。」(詩「エレギー」、浅井真男訳)これらの詩行のなかで死の境を超えていく概観的なまなざしは、翳りをおびつつ、同時に不正の極みを身に受けた者たちへの追悼に光を投げかけもしている。書くことにはさまざまな形がある。しかし事実の記録や学問を超え出て、回復のこころみがおこなわれるのは文学においてのみだろう。そのような務めをみずからに課した建物(シュトゥットガルト文学館)がシュトゥットガルトにもまた存在することは場違いではない。この建物と、この建物を宿らせているこの町とに、よき前途あれと願っている。

「回復のこころみ」p.185.186. W・Gゼーバルト『カンポ・サント』(鈴木仁子訳、白水社