1月20日(木)終末期の連絡

きのうは、体育館で10時からリフレッシュ教室。
11時に終わって、クライミングをすることにしていた。クライミング壁の前で登る準備をしていたときスマホを見たら、妹のK子から、父が終末期でいつでも面会に行けると施設から連絡があり、K子は今日行く、とあった。「あ、だめだ」思わず言葉が漏れた。行かなくては、行って様子を見なくては、と思った。でもどうしよう。もういちど読んで、終末期か、と思って、やはり父の施設に行くことにした。一緒に登ろうとしていた人には訳を話した。「それは行きましょう、行かなくちゃ」と言ってくれた。その時登っていた知人が訳を聞いて利用を延長してくれ、私と一緒に登ろうとしていた人に付き合ってくれることになった。二人の厚情に心から感謝する。
胸が苦しそうだから父に酸素をつけた、「連絡まで」と、K子から一昨日ラインがあったばかりだった。私は、酸素でらくになればそれにこしたことはないと、現状維持のように思っていたのだけど、終末の進行なのだった。いや、進行とは思っていたけど、最後がすぐ迫っているとは思っていなかった。

家に帰り、けんちん汁とご飯を食べ、着替えて、電車に乗る。K子とはラインでやり取りした。最寄り駅の改札を出ると、K子がこちらを向いて立っていた。「よう」「どうも」「どうかねえ」「わからないねえ」道みち話した。

父は、眠っていた。介護の人が笑顔で応対してくれ、娘さんたちが来ましたよ。起きてください、と父の耳元で言って、目を開けた。ベッドの頭の角度を少し上げた。
父の両耳から鼻に細い透明のチューブが渡されて、鼻の両穴の浅いところに入っていた。頬にチューブの跡が軽くできていた。
来ましたよ、知子ですよ、K子ですよ、私たちはかわるがわる言った。
父は、知子とK子か、と言った。目がそうかという表情をした。誰かはわかったようだった。うー、うー、声を出す。何か言いたそうで、言葉を探している感じだ。来たのか、と言ったような感じだ。でも眠そうだった。ときどき目をつむった。見守る。痛いところない、胸とか、と耳元で言うと目を開けた。でも、他にどんな言葉をかけていいのか、浮かんでこない。元気?と言って肩を軽くポンポンとたたいてみた。それについての父の反応はなかった。元気じゃないよねえ、低い声で、K子に言った。
何度目か目を開けたとき、うー、うー、と言い、両手を布団から出して、空中の前に差し出した。車いすがある方向だ。うーうー、手、手を貸してください、と言葉になった。足をもぞもぞさせて、右膝を立てて布団から出した。脛が鉄棒くらいの太さだ。起きたい、車いすに乗りたいのかと思ったけれど、こちらが手を添えて背中を起こして骨でも折れたら大変だ。いろいろ弱って、もう車いすには乗れないの、とK子が低い声で私に言った。1月8日に来たときは車いすに乗っていたのだけど。K子は父に、寝てた方がいいよ、と言った。私は差し出した父の掌を両手で握った。
父は、うちに帰る。と言った。娘二人が来て、迎えに来たと思ったのだ。私は部屋のティッシュで鼻をかんだ。
普段、もぞもぞ動くようなことはあるんだろうか。父を興奮さてしまったかもしれない。何かを言うときは一息一息ふう、ふうと呼吸している。酸素は助けになっているようだ。
時間が来たからもう帰るね。寝てていいよ。布団を胸までかけなおして、布団のうえからトントンして、部屋を出てきた。面会時間は20、30分と言われていて、25分いた。
外は暗くなりかけていた。施設を出て、K子がすぐに、帰りたいって言われた時、胸が痛んだ、と手を胸に持ってきて前かがみになって言う。しょうがないよ。私は言った。

意外と元気そうだったね。こればっかりはわからないねえ。お医者さんが言ってたけど、酸素つけて次の日に亡くなる人もいるんだって、k子が言う。そうなんだ、もちろんすべて予定をキャンセルできるけどねえ。
明日は私だけが見舞うことにした。行ける時に行きましょう、というのが基本だ。

帰りはK子と反対方向なので、K子とは駅で別れた。家の最寄り駅に帰ってきて、イオンで買い物した。T夫は今夜は遅く帰るので夕飯はいらない。お腹が空いたので、フードコートのはなまるうどんでぶっかけ牛肉卵うどんを食べた。おいしいとは感じなかった。いつもはおいしいと思ってかけうどんを食べている。精神状態のせいかどうかはわからない。広い空間に白くてかたい椅子と机が一面に置かれている。間店時刻が近い。利用客は遠くにぽつぽつ数人だ。いろんな人が利用したであろう全き清潔感は期待できない空間で、でも、公衆の場所にいた方が、心がかき乱されないで良いのだ。鼻水は出て、ときどき鼻をかんだ。