4月7日(木)吉阪隆正展 ひげから地球へ、パノラみる

きのうは、「吉阪隆正展 ひげから地球へ、パノラみる」に行った。東京都現代美術館

今和次郎生活学・住居学を学んだ。ル・コルビュジェのアトリエに2年間勤務して設計実務に携わった。そして、登山家・冒険家でもある。ベネチアビエンナーレの日本館やアテネ・フランセ、涸沢ヒュッテなど数々の建築と、都市計画もしている。
戦後焼け跡に建てた、家具に屋根を乗せた建物にびっくりした。バラック住宅ののちに建てた自宅は、近所の子供たちが敷地に入って遊べるようにと解放的だ。
「大地は万人のものだ」という思想で、個人所有の家でありながら、家族あるいは関係する他人が行き来する場としてのイメージが初めからある。旅の絵日記・ぱたぱた帖の見事なこと。風景と人物が活写されていて楽しい。

 

会場に掲示された吉阪の言葉の一部。(写真に撮った)

「全体の一部であっても 住んでいる人間にとっては中心である ということを忘れないこと」

「不連続統一体にすること。これはなるべく大きなまとまりにして、巨大として接近するとともに、切れ目を細かく入れて小都市の雰囲気を保つことだ。…それは巨大の中の埋没から救ってくれる」

「あそびもあだやおろそかにできなくなる。

時間つぶし、逃避、僥倖といった消極的なことから、もっと個人の地位も、財産も、名誉も、

いや生命まで賭けてよいものともなり得るのだ。

そうすることによって、生存のために縛られている枠から脱皮ができ、

悔いることのない生命の燃焼ができるのではなかろうか。

その世界では怒りも、悲しみも、憂いもよろこびに還元される。

それをやらしてくれるのが本気のあそびだ。

一切を賭けてのあそびである。

そんなあそびを私はすすめたい。」

あそびについては、登山家らしい言葉だと思う。「登山・冒険」を「あそび」にあてはめるとしっくりくる。敷衍して、あそび全般について言っている。私にとって、遊びは気になる言葉だ。斎藤義重は、遊びに言及していた。作品は遊ぶように作るといい、遊びから面白い作品ができる、というようなことを聞いている。吉坂と斎藤はアプローチは違う、あそびの方法/方法としての遊び。でも、自身の考えや目標が、あそびに表されるのが面白い。 

うろ覚えだが、「止揚」という言葉も会場にあった。所有を軽めにして、万人が交流しながら生き生きと過ごすというような。

建築家って、単に家を設計する人と思っていた。その形状に心を砕く人と。でも、家を建てる、ということは、収納や導線や採光や風の通り方や雨水や雪の逃し方などの住みやすさや、家族間の個人の独立と集まりやすさと、家が集まるとまわりの環境のデザインも含まれると気がついた。

家族のなかでは個人であり家族の一員である。独居はひとりであり地域の一員である。じぶんは個人であり社会の一員でもある。その双方を生かす建築なのかもしれない、とひとまず理解した。  

 

美術館のショップでカタログを予約した。
涸沢ヒュッテに泊まろうと思った。