2月28日(月)映画「ドライブ・マイ・カー」を観た

きのうは、午後、ドライブ・マイ・カーを観た。

セリフをじっくり聞かせる。物語がいくつもあるからだ。それに、言葉に信を置いているからかも知れない。ささいなことが重要だと思っている脚本家というようなセリフがあった。行動原理や哲学や指針が芯にあって、ささいなことを紡いでいけば、それが見えてくる、感じられるということか。

物語とは、「ワーニャ叔父さん」を読む女のカセットの声、「ワーニャ叔父さん」の稽古のセリフ。「ゴドーを待ちながら」の舞台のセリフも少し出てきた。脚本家の女が明け方に紡ぐ物語。子を亡くした夫婦としての男と女、女と関係があった俳優、韓国出身の、俳優と劇場スタッフ夫妻、困難な家庭で育ったドライバー。つまり、ワーニャ叔父さん、ゴドーを待ちながら、明け方の物語と、人物たちの来し方。
男が、韓国の俳優のひたむきさと「ワーニャ叔父さん」に救われる。

深く傷ついていると、自分が傷ついていると思うことを回避しがちだ。思うだけで傷つく。あるいはよくわからない中にいると、気持ち悪い、嫌な感じがする。どうもがいていいかわからない。せめてできるのは、多少の罪悪感をもちつつ逃げようとすることだ。
傷ついていることやいやな感じがわかる方法、見える化の方法が、文学だ。

ドライバーの俳優のたたずまいが良かった。飾りがそぎ落された人のように見えた。そういうふうでもいいと示していたように思った

やや上から俯瞰で撮られた車が走ってきて走っていくシーンが幾度もあった。小さな車が景色の中を走っていく。

最後、ドライバーがどういう境遇になったのか、よくわからなかった。韓国人の女優が里帰りして、ベビーシッターとして住み込みしながら、ドライブバーの仕事をしている、家族のような環境を得たのだったらいいと思う。