7月2日(木)夫と近美へ

 きのうは、夫と東京近代美術館に行った。コロナが本格的に社会に影響を与える前の2月25日にペア券を買っていた。2月29日に美術館は臨時休館している。6月4日に再開されてから一度「ピーター・ドイク展」を友人と観ているのだが、二回観てもいい。常設のコレクション展も必ず観る。

 常設展は時々展示作品が変わる。明治以降制作された作品群の全体で変わるが、中で絵は季節に合わせたものが数点かけられる。今回は雨の風景を描いた作品だった。私は衒いのない洋画や日本画が結構好きだ。60年代70年代の現代美術はその時代に近接しすぎて、時に洗われて古びて見えてしまう。もっとも現代美術ばかり好んで見てきたからかもしれない。もっと時がたつと、また良く見えるのかもしれない。

「ピーター・ドイク展」今回は、光のにじみが描かれなくなった今に近い作品が気になった。はじめのころの、写真からレンズを通した光のにじみを絵画に定着させてそれを目で見る、という視覚がもう一つ新しいバージョンを獲得したような感じと、素敵な色使いと、描かれたものがとっつきやすいということだと思っていた。とっつきやすくて心地よい、見る側にとって敷居の低い絵なんだなと。
 でも、今に近い作品は、光のにじみは多用されない。黒い輪郭線の中に色を塗っている。図柄はシュルレアリスムに近くなる。これでいいということなんだろう。自分に潜んできたということか。
 相変わらずの大きい画面をさっと薄塗で満足するのは、経験と根拠がいることだろう。

 夫とは久しぶりのおでかけだった。前日に、家を10時に出ると決めていた。私はそのつもりで準備していた。夫は9時45分には用意が整って、じゃあそろそろ出ようか、と、靴を履いて玄関を出てしまった。私は、着替は済んでいたが、まだやることがあった。9時55分に家を出た。私は時間に遅れたわけじゃない。夫は自分のペースに私を合わさせる。私のために待てない。
 帰りの電車が駅に着いた。夫は切符も使うので、改札の駅員さんの清算を待つ列にならんだ。私は先にパスモで改札を抜けて、振り返り、ならんでいる夫の顔を見て、手に持ったパスモケースを小さく振った。そのまま、券売機に寄りパスモにチャージした。し終わって振り向くと、誰もいない。人の波は去っていた。夫もいない。券売機は出口へ向かう動線から3メートルも離れていない。わかるはずと思っていたから、あれっと思って、駅の屋根を出て歩くと、100メートルくらい先を夫が歩いていた。後ろ姿の夫にスマホで電話したけど、気が付かない。私は走らないで、歩いて夫に近づいていった。信号が赤になって夫が止まり、追いついた。パスモをチャージしてたんだよ、と言ったら、夫は、先に行ったと思った、と言った。
 長く夫婦でいると友愛関係になると思っていたけど、違った。わかってくれるだろうという甘えが、双方にある。私も、これが友人だったら、一言、パスモをチャージしてるね、と断っていただろう。細かく説明しなくても夫がどう行動するのかわかっていたし、わかられていたつもりだったが、はずれた。

 

今日の東京都の新型コロナウイルス新罹患者が、107人。きのうは67人。