11月8日(日)「拡張家族」という言葉からつらつらと

きのうは、私の衣料の衣替えをした。

 この数日間だけど、いつ聞いたか覚えてなくて、NHK「聞き逃し」で調べても見当たらない。NHKじゃないのかな。とにかく、朝、ラジオで、拡張家族を主催?実験生活をしている社会活動家のインタビューを聞いた。ネットで今検索すると、石山アンジュさんという。

新しい家族のかたち「拡張家族」、0歳から60歳までがシェアハウスに住む。「意識でつながる拡張家族」「働き方の次は家族観を見直す」
石川アンジュさんの2018年のnote より抜粋。

 ううむ。婚家にいるようなものか。性関係のない友情。あ、性関係はあってもいいか。あるいは、暮らすことを目的とする会社のような組織。
 核家族に人をいれたら風通しがよくなるし、夫と妻は血縁ではないのに家族を構成する。血縁は家族と違うとは思ってきた。血縁を子から見れば親も入る。両親と子と兄弟姉妹だ。離婚して結婚して、家族が増えたりするステップファミリーは珍しくない。など。「拡張家族」という言葉から考えが広がる。
 個人の環境や経験で「家族」の捉え方はさまざまだ。ともに暮らす人、離れていても、血縁、血縁じゃなくても、法的に夫妻や親子じゃなくても。一族や親族となると、家族とちょっと違う気がする。ああ、新しく作れる、なれる、のが家族だ。我々は家族だ、とか。緩く範囲を広げられるし、ぎっちり狭めて捉えることもある。
 病院に入院したら、重体の場合、法的な家族しか面会できない、とか、今後の治療方針を話し合う場に参加できない、と聞く。
 家族は共同体とどう違うのだろう。子の養育に責任があるのが家族か。子がいなかったら生活を助け合って営む。助け合いは家事と経済とだ。責任を持ち合うのかな。
 共同体となると、そこまで責任を持てない。病気の人をほおっておくことはしないだろうが、人生に介入するほど責任はとれない。暮らしていく経済面では緩く助け合うこともあるか。自分で稼いで自分の責任を取って、あとは友情だろうか。
 「昔の共同体のように」と、ときどき古き良きイメージを目にする。以前は農業が人力でされていたし自然が相手だったから、共同作業でないとやっていけなかった。農村での共同体は経済に深く結びついていた。農業が機械化された今でも、農村では良くも悪くも共同体の様式は生きている。

 生活を、稼いで、家事を回して、体の具合も整える、子がいれば養育、ということで言ってきたけど、愛情が抜けていた、友愛と性的な愛。あと、芸術も。