11月28日(土)「性差ジェンダーの日本史」展カタログより

きのうは、午前中はモスバーガー、午後はバイト。

 

 一昨日観た「性差ジェンダーの日本史」国立歴史民俗博物館は、今を相対化する目を持たせてくれる、たいへんいい企画展示だった。展示の最後にあった村木厚子氏の動画も、鑑賞者の考え方を示唆して、これで決まり、という感じだった。

 

 以下、すべてチラシとカタログによる私の覚書。

 古代は、律令国家の形成とともに、「男」と「女」と区分し、異なる役割を定める制度、ジェンダー区分が社会に浸透していった。男女官人がともに奉仕をしていた。
 中世は、女性官僚が女官として御簾のむこう側の存在となっていく。女性も家長となり政治的機能を発揮した。女性には財産権があり、相続する権利と処分する権利を持っていた。働く男女はいずれも職人として描かれた。
 宗教は人々に大きな力を持った。仏教による女性差別観が始まり人々に受容され深化していった。女性罪悪観は、平安時代末期に貴族社会で定着が進み、地方の庶民への定着は室町時代の初めでもまだだった。しかし女性差別観があるゆえに、女性の救済願望を強めた時代でもある。
 近世になると、職人から女性が排除され、「女職人鑑」のように「女」というジェンダー記号がつけられた。

幕藩体制を構成する徳川将軍家と大名家は、国家的公権を担う公的な「家」として存在していたため、当主だけでなく奥向きを居住とする正妻や子女たちも公的な存在とみなされていた。なかでも正妻は、家の権力構造にあって一定の政治的役割を担っていたのも事実である。P150

 幕藩体制は男性の当主によって代表され、男性中心の政治が行われていた。男性と女性は、表と奥の殿舎の分けられ、表向きが政治を執り行い、奥向きが住居や女性勤務の場とされ、年中行事や儀礼を取り行った。儀礼を通じて当家の安泰な運営を支えていた。当主の居住空間である奥向きは、当主が単身で過ごす空間と家族で過ごす空間に分けられた。男女の性差に対応した二つの奥領域に分離された。
 奥向きの中で、当主と男性役人からなる領域を表方とし、正妻を中心に家族と女中からなる領域を奥方と称する。表向と、奥向き表方には厳格な分離があった。男性役人であってもその境界を越えられなかった。男性役人と大奥女中(奥方)は協業して奥向きの運営にあたった。また、早世した藩主の代わりに、正妻が政治権力を発動していた。

近世社会は、権力や財産が、その「家」の家長によって継承される社会であり、女性も「家」の構成要因として「家」を継承していく上で不可欠な存在であった。たとえば、当主がその役割を十分に果たせなかったり、不在だったりしたときには、正妻は「家」を維持する力を発揮することが期待されたのである。p170

 近代(明治期)になると、「家」と政治の分離が原則になり、「家」の奥の構成員として一定の政治的役割を果たしてきた女性は、奥の解体によって政治空間から排除されてゆく。皇室典範井上毅による女帝や女系の反対で、男系の男子による皇位継承を定めた。

「家」を構成単位とする政治権力のあり方を否定したのが、1871年廃藩置県とそれに続く近代化政策であった。「家」が政治権力の構成要素ではなくなった結果、女性が、「家」の内部での権力や財力を持っていても、奥が公的な政治権力の行使につながる回路は失われることとなった。また、中央政治における、政治空間からの奥の女性の排除も進んだ。p17

 性の売買
 古代では、遊行女婦や娘子と呼ばれる専門歌人は地方の役所で行われる宴会のに参加して和歌を詠んだ。遊女の前身である。貴族男性たちと性的な交渉を持ったが、古代社会においてそうした性交渉が通常の男女関係と区別されることはなかった。
 性を売る女性として遊女が現われるのは、9世紀後半ころ。売春だけでなく和歌によって宴席に侍ることを仕事とした。10世紀末以降は流行歌謡である今様を取り入れ、今様の専門家とみなされていく。遊女の本拠地は当初から広範囲だった。港や街道沿いに家を構えて旅人たちを客にとったが、買売春をともなわず、純粋に宿泊施設として利用されることのあった。宿泊業者としての側面もあった。遊女たちはそれぞれ自立した自営業者として仕事の裁量権を握っていた。自由に移動や営業を行うことができた。営業は「家」を単位に、遊女は家長として家計を担い家族・従者の生活を支えていた。遊女の仕事は家業とみなされ、芸能の技術や客との人脈が、母から娘へと女系で相伝された。外部からの新規参入はほとんどなかった。また、遊女たちは拠点ごとに集住し、数十人から数百人規模の集団を形成していた。
 15世紀になると、遊女屋の経営者が男性に変わっていく。そして、集団外部の女性が遊女になる例が増えていく。15,16世紀には女性が誘拐や人身売買によって遊女とされる例がみられ、遠距離、多人数の継続的な売買が行われた。
 近世、統一政権が誕生して城下町の形成が進む中で、男性が経営する遊女屋が遊女たちを抱えて売春させる遊郭(遊女町)が生まれた。幕府は各地で遊郭設置を認めたほか、売春営業を黙認した。公認遊郭と非合法の売女屋がある。全国津々浦々に買売春が広がる。遊女屋は金融が必要で、寺社や豪農や皇族の金融活動の利潤の源泉になった。
 幕府も維新後の江戸市政も、新吉原遊郭からの莫大な上納金によって大きく支えられた。1872年芸娼妓解放令。

 芸娼妓解放令は、遊郭を構成する街の特権とそのもとでの遊女の奴隷的隷属という近世の買売春制度を解体していった。しかし、近代以降の娼妓たちの多くは、前借金と呼び名を変えた負債によって身売りを強要された女性たちだった。また、新たに導入された自売という建前は、江戸時代以来の遊女への共感や同情を弱め、下層の女性たちに向けた、自ら売春する淫乱な女という蔑視のまなざしを生み出していった。p206

 近代においても公娼制度は再編・持続し、発展した。明治政府は、遊女屋を貸座敷、遊女を娼妓と称してこれらを公認し、娼妓は座敷を借りて「自由意思」で性を売る存在であるという建前にされた。しかし、現実には、娼妓は貸座敷に拘束されて、廃業の自由なく性を売らされていたというのが実態だった。p208

貸座敷は各府県に委任され、各府県警察行政の下におかれた。貸座敷営業と娼妓家業は特定の地域に限定して公認するという集娼制度が採用された。p207

近代の遊郭。①近世の遊郭智。②近世から飯盛女を置いていた宿場町。③居留地等。④近代以降の産業発展地・交通の要衝の地。⑤軍隊の駐屯地。⑥植民地都市。
 近代日本は、男性が遊郭で女性を買うことにきわめて寛容な社会だった。政府・政治家や陸海軍、貸座敷業者たちは、強姦防止や性病予防のため、あるいは地域の経済のため、一部の女性が犠牲になることはやむを得ないとして公娼制度を維持し続けた。p212

日中戦争アジア太平洋戦争も遊郭は持続した。
1946年GHQ公娼制度廃止の指令。建前上公娼制度の廃止。
内務・厚生・文部三省次官会議「私娼の取締並びに発生の防止及び保護対策」性売買を行う店を特殊飲食店と名付けて地域限定で営業を容認。赤線と呼ばれた。その周りに青線と呼ばれる黙認性売買地域ができた。

仕事とくらしのジェンダー

 明治近代は「政治空間」への参加に関し、「性差」を壁として導入した時代。近世では、「性差」は政治空間や「家」に継承・運営にかかわる女性を排除する絶対的な区分ではなかった。夫婦は別姓で、妻は生家の氏を名乗る。法律婚によって妻に夫の姓を名乗ることを決めたのは明治民法1877年の規定。
 政治空間をめぐる法の制定・整備過程という政治システムの「近代化」は、性差に絶対的な意味を持たせ、女性を排除する過程だった。男性有産者に政治参加を限定。女性の加入・政談集会発起の禁止。女性参政権の否定。明治民法の施行により、法制度によって女性を公的政治空間の対象外にし、労働において性別役割という構造的な不平等においた。高等文官試験や代言人試験に女性の参入資格がない。試験制度によるキャリア獲得ができない。帝国大学はじめ高等教育は女子に解放されない。教育資格と職業をつなぐ制度設計から女性を排除した。
 男は仕事、女は家事育児とイメージされる固定的な性別役割は決して伝統ではない。「近代」は、伝統社会が備えてきた多様な秩序をジェンダーで一元化し、性差による非対称な壁を制度によって構築した。
 1887年前後をピークとして、家内の団欒や家族員の心的交流に高い価値を付与する「家庭(ホーム)的な家族」が、新しい理想的な家族として総合雑誌の記事に多く登場した。p232

1892年、『家庭雑誌』では、明るい家庭のために家庭婦人が行うべきことや男女の役割分担が説かれ、家庭という新たなコンセプトの中で「主婦」イメージがかたちづくられていった。 p232
 日露戦争第一次世界大戦後、大都市での新中間層の拡大。夫は事務職専門職で棒給を得て家族を養い、妻は家庭で家事と育児に専念するという家庭が、都市部で広がっていく。1899年「良妻賢母」育成目的の「高等女学校令」。
 1920年代「職業婦人」とは、教師・タイピスト・事務員・店員・看護婦・交換手。未婚・若年・短期就業のこと。戦前の女性が「家庭婦人」に専念する暮らしは、現実から遠い。女性も労働に従事した。製糸・紡績の主要な労働者は女性だった。鉱山労働「女坑夫」。夫婦共稼ぎが一般的。炭住の「私」空間で晩酌しくつろぐ夫と晩酌の用意と炊事に追われる妻の絵。

 アジア太平洋戦争後、女性の行政職は、女性の就業中、紡績、教育に次ぐ三位。試験を経た女性官僚は1950年代後半から出現。1947年、労働省婦人少年局の初代局長に民間から、山川菊栄。局三課のうち婦人少年課と婦人課長が女性。行政職にかかわる女性の多くは非任官者。
 山川は、新憲法下での法的男女平等の保証を起点に各種の行政調査を重ね政策に向けて問題点をあぶりだしていった。啓蒙方法も、ポスター、壁新聞、パンフレット、リーフレット、紙芝居、ラジオ、映画制作など、多様なメディアをもちいた。「婦人少年局地方職員室」が調査や関係諸機関との連絡を担った。労働課労働条件班に勤務したミード・スミス・カラスは、女性の組合加入や労組婦人部の活動・地位向上を説き、地方職員室を啓蒙した。
 

 

時代が下がるとともに、詳細になった。全体からのバランスは悪いが、写しておきたかったのでこうなった。