11月27日(金)お花見

 きのうは、午前中モスバーガーにいて、午後は国立歴史民俗博物館「性差ジェンダーの日本史」を観た。

 モスに行く前、親類N氏から電話があった。地元の、今はもうない建物を「青年学校」と呼んでいたのかどうか、家のおじいさんに聞いてほしい、という。N氏のお子さんが仕事で郷土史を調べていて、お子さんは、朝、仕事に行く前、「聞いといてね」とN氏に頼んだそうだ。お子さんは、実際に住民が「青年学校」と呼んでいたかの証拠が欲しい、とのこと。「青年学校」はずいぶん昔のことらしい、我が家のおじいさんならわかるかもしれない、昨夜お子さんと話していて我が家に聞いてみることになった、とN氏は言った。
 その建物は私も知っている。取り壊されて無くなったが、以前は小学校の隣で、市役所の出先機関として使われていた。

 まず、おじいさんとN氏とで電話で話した方がいいだろうと、おじいさんに電話に出てもらうため、私がおじいさんにかいつまんで要件を言う。おじいさんは、「どうだったかな、昔のことはわすれちゃった」、と言ったが、電話のところまできた。おじいさんは受話器を耳に当てるが、「はあ、よく聞こえないな」と言う。私には受話器からN氏の声が漏れて聞こえているのだけど、補聴器をつけていないおじいさんには聞こえない。私が電話を替わり、N氏に、急なことで昔のことを聞いても思い出さないし、耳が遠い。私が聞いてみてあとで電話すると伝えた。

 建物は、小学校校舎のそばにあった。おじいさんに、小学校のことを建物から昔はどうなっていたのか、紙に図を描いて聞いていく。私が知ってるのは、雑貨を扱う店と呉服屋と郵便局が道路沿いにあって、門を入ると左手に建物があって、正面は校舎だったけど、どうだった?
 校舎では尋常小学校6年間を過ごした。おじいさんは6年間その校舎だったけど、ほかの地区に分校があり、1年から4年まで分校で過ごしたあと、5,6年で一緒になった児童もいた。校門左手に件の建物ともう一つ、女子児童だけが裁縫を習う畳敷きの部屋も独立してあった。
 昔は靴なんてなかった。藁草履か下駄だ。昔は冬に雪がよく降った。雪をはだしの藁草履か下駄で踏んでいく。
 しもやけが大変だったでしょう、と聞くと、うん、そりゃあひどかった、こんなに膨れて、とおじいさんは言った。
 先生は怖くて、今みたいに先生に何か言うなんてことはなかった。
 尋常小学校を卒業すると、校門左手の件の建物で高等科1年2年を過ごした。卒業するとクラスのほとんどの人は家の手伝いになる。その中で3人が学校を続けた。中学校に行ったのは一人、我が家のおじいさんは長男ということで、一年間、私立の学校に通った。
 自転車で駅まで行き、電車に乗った。定期は1か月と3か月と半年があった。期間が長いのはいっぺんにお金がかかるから、1か月にしてくれと親に言われた。当時の金額で1か月30円。卒業したあとは、農作業を手伝った。
 シナ事変(日中戦争)のころ、昭和13年か14年ころか、件の建物の青年学校に行った。週に一度、土曜日の午後だ。午前中は児童が学んでいる。家でお昼を食べてから出かけた。「気を付け」「回れ右」とか兵隊の訓練だ。地下足袋にゲートルをまくまき方も教わった。厳しかった。軍隊から来たのか、軍隊を上がった(除隊した)のか、地区のSさんが教えていた。
 昭和14年ではおじいさんは10歳、10歳は青年とは言わないから、少なくとも尋常小学校を卒業してからのことだと推察する。それとも小学校の軍事教練と混ざっていたか。シナ事変(日中戦争)は長期化して昭和16年の日米開戦とともに日中は正式に戦争に突入した。シナ事変は大東亜戦争に吸収されたということなので、大東亜戦争のつもりで言ったのかもしれない。

 小学校の校庭に、もう切っちゃったけど、こんな大きな桜の木が植わっていた。とおじいさんは両腕で丸をつくる。人ひとりを抱えるくらいの大きさだ。女の先生で、着物を着て下は袴をはいていた。加藤先生といった。桜が咲いていたとき、学校に行くと、先生は、今日はお花見をします、と言っておじいさんの手に女の子の手を重ねて手をつながせた。私の目前のおじいさんは、こうやってと自分の手のひらにもう一方の手の平を重ねた。女の子と手をつないで並んで桜の木まで歩いて行った。花見が終わって教室に戻ったら、今日はこれでお帰りです、と先生は言った。何もせずそのまま帰った。

 90歳のおじいさんの話だ。小学校一年生のころの話ではないかと推察する。当時、このあたりでは袴をはいた女性はなかなか見られなかっただろう。そして、女の子と手をつなぐことなど、ほとんどなかっただろう。先生にいわれて手をつなぐときの驚きとてれくさいようなうれしいような6歳の男の子気持ちが想起された。90歳のおじいさんの中にあった、時間のかなたの男の子に胸が詰まった。私の勝手な感慨である。