8月7日(木)韮崎のんびり旅行

 きのうは、韮崎を巡った。午前10時過ぎに、妹とともに韮崎に着いた。駅前の二コリ内の観光案内所でレンタサイクルの電動アシスト付きのやつを借りた。最初窓口で、二台あるけど一台しか貸すことができない、と笑顔で女性職員に言われて、えーっ,じゃあ一人は普通の自転車か?と頭をよぎったけど、隣の男性職員が、点検はしないから貸すことができると言い、ーー今日は点検するので貸せないということだったらしいーー無事、借りることができた。前日電話して、予約はできないけど開店すぐならあるでしょう、と聞いていたので、ちょっとびっくりした。
 借りるとき書きこむ用紙に、訪れる予定の場所を記入する欄があった。受け取った女性職員が一読して、途中でバッテリーがなくならないか心配した。広範囲だと思ったらしい。登坂以外は電気をオフにしといた方がバッテリーの持ちがいいということだ。ぺダルを漕いで発電するわけじゃないと知る。私は電動アシストが初めてだった。持参したヘルメットをかぶる。手袋とヤケーヌもつける。
 良かったね。電動のが一台だったら、代わりばんこだよね、100メートル走ったら代わるとか、かな、と妹と笑いあった。

 富士見ヶ丘の坂を上るときに、電動アシストの威力を知る。ペダルを踏み込むとグーンと進む。平和観音で停まって景色を眺める。遠くに富士山、市街が見える。この風景が好きだった。進んで、NHKの朝ドラ「花子とアン」ロケセット・韮崎市民俗資料館のうち、ロケセットだけ見る。花子の生家と土蔵の教会がある。両方とも屋内に入れない。外から眺める。生家は藁ぶきの小さな家だ。障子が紙じゃなくて弾力があった。放送から年数がたって、木材がやや白っぽくなり木の年輪の間が侵食されて少し波うっている。私は「花子とアン」を見ていないのだけど、娘を東京の女学院に出せるほど教育熱心な家にしては、生活するだけで精いっぱいの感じだ。ちょっとこれじゃあ、とおばさんが言ってたよ、と妹が言った。おばさんは当の女学院出身で、放送されていた時、同窓のお友達とそんな話をしたそうだ。朝ドラの設定が、貧しさを強調しすぎたんじゃないか、ということ。

 途中、ローソンで小休止しながら、新府城̪祉に着く。「お新府さん」と呼びならわされていた。駐車場に自転車をとめて、長い階段を上る。登山ふうに、なるべくジグザグに足を運ぶ。上がりきると藤武神社で、平らじゃないけど草地が広がり、木々もあるし車も数台停まっている。ここには何度か遊びに来た。小学校の遠足でも一回は来た気がする。中学のとき部活の仲間と来たのが最後だった。
 北の崖に近いところで発掘をしていたので近づいた。土を垂直に掘ってあって掘った形は直方体がいくつかある感じ。係のひとは5人くらいいて、調べているふうだった。発掘って、何を頼りに掘るのか、どこで掘りやめるのか、いつも不思議だ。掘られた露出している土を見ていると、深めだったり浅かったり、そこには色の違いもないように思える。古代じゃないから地層の違いとかじゃないんだろう。新府城城主の武田勝頼は敗色が濃くなると、自ら城に火を放って落ちていった、ということだから、どこかに焼けた跡でもあるのだろうか。
 時刻は11時半を回った。風はあるが日が照って、暑い。原っぱの真ん中、神社の裏当たりに来てペットボトルの水を飲む。どこから来たんですかと話しかけられた。50代前半くらいの男性だ。タオルを絞って立ち入り禁止のトラロープにかけた。ほかに人もいないから、発掘に携わっていた人で、休むために車に来たらしい。
 わたしたちレンタサイクルで来たんですよ、とざっと自己紹介し、話していく。この人は研究者らしい。調査のためにほかのところから来て、この近くに住んで長くなった、と言った。土塁が切れた出構(でがまえ)を発掘しているそうだ。
 昔はこの藤武神社なんかなかったからね。
 ああそうか、ここは本丸でしたね。
 御城印というのがあるんですけど、寺だったら御朱印、城は御城印。わたしは御朱印を集めていますが、花子とアンのロケセットのそばの民俗資料館で御城印をもらえますよ、と教えてくれた。
私たちはそっちから来た、とは言えないで、うなずいた。
それから、この男の人は、発掘している方を指して、あそこにいる人はこの辺のお城を調べている有名な先生で、新府城のことではよくテレビなんかに出てますよ。あそこに行って、説明してもらったらいいですよ、こんなチャンスめったにないから、と言ってくれた。
その有名な先生は、向こうの車に入ったり出たりしたあと入ったまま、車のシートを倒して寄りかかる態勢をとった。
 あれ、お休みに入るかな、と男の人。
 妹と行ってみると、有名な先生は倒したシートに身を預け目をつむっている。お邪魔できない。勧めてくれた人のほうをちらと見て、戻った。そして、じゃあ、失礼します。と言うと、気を付けて、と車の中からはっきりした声が返ってきた。

  光明寺から七里ヶ岩を下りて、釜無川を渡る。そこから西中を目指す。正午過ぎで風はあるが日の光は強い。川と並走する見通しのいい道路を進む。左手は遠くに茅が岳、七里が岩と釜無川と市街。右手は甘利山と手前に鈴嵐山とそのふもと。後ろは八ヶ岳、前は薄い富士山。
 西中の前までくる。自販機のあるところでちょっと水を飲んで、このまま行ってしまうのもつまらないから、西中の駐車場まで自転車で入る。。
 校庭を見て、妹は最初に、ひろーい、と言った。妹は中一までここで過ごし、中2になるときに転校した。転校先の中学の校庭は狭かったらしい。私は、高1で転校したので知らない。妹が言うには、転校した中学にサッカー部はなかった。野球部が練習しているところを横切って陸上部が走っていた。とにかく人がいっぱい。体育館もバスケ部はハーフコートで練習時間も短かったのだそうだ。放課後の時間を前半後半に分けて、二つの部を練習させたのだろう。学校は、不良にさせないために生徒を部活に入れているだけだったよ、とおどけて言った。
 西中の校舎は位置が変わりきれいになった。そもそもこんな駐車場だってなかった。校舎手前に多分プールだろうと思われる建物がある。部室もここにあるのかな、と私は言った。昔はプールに付随して下に部室があった。コンクリートブロックの壁で、ドアは鉄製、窓はコンクリブロック二個分を開けたものだったか。照明は電球で、つけてもあまり明るくない。湿気もあった。部活が終わって、上級生から学年ごとに着替える。汗だくの二十数人が8畳くらいのコンクリブロックの部屋に入っているのだ。夏は熱がこもって、サウナみたいだった。年に一回、虫退治のバルサンを焚いた。
 でも、ここで、よくまあ走ったよね、と西中の校庭を前にして、妹と確かめ合う。週に一回、20分の休み時間に全生徒で3キロ走ることになっていた。朝練して放課後も練習して、2キロの道を歩いて帰った。年に一回20キロのマラソン大会もあった。そういうもんだと思っていた。それで、私は体力があった方かと言えばそんなことなくて、頑丈というか、すごい人はいっぱいいた。他の人はなんでこんなに走るの早いんだろう、とか、なんでこんなに体力があるんだろう、と思っていた。
 今度は武田八幡宮を目指す。緩やかな登り坂が続く。ありがとう電動。着くと武田八幡宮の建物が立派なのに気が付く。武田八幡について、中学の夏休みの自由研究にしたことがある。研究と言っても案内文に詳しいことが書いてあって、それをほぼ丸写しして模造紙に書いただけだ。当時は、あるがまま見ていただけで、こんなに立派だとは意識していなかった。武田勝頼の夫人、北条夫人の戦勝祈念した願文が納められている。
 午後一時を過ぎた。10分ほど走って大村美術館の隣のそば屋に行く。「そば処 上小路」。ヘルメットをぬいだ。汗かいて、押しつけられた髪をほぐしても、自分の形相はすごいんだろうな。中高年の女性は、こぎれいにしてないとすさまじい感じになってしまう。しかし妹と一緒だから、まあいいか、とあまり恐縮もしないで店に入る。
 私は合鴨の冷たい蕎麦を食べた。皿に盛られた蕎麦の上に野菜と合鴨が乗っている。合鴨は噛むと香ばしい燻製の味がする。手打ち蕎麦の歯ごたえもいいし、つけて食べる甘めのつゆもだしがきいている。蕎麦のほかに、三種の口取りがついてきた。ゆでた根菜に味噌味ソースがかけられたもの、甘くない粕のようなものに豆腐が入ったものと、何でもないグリーンサラダ。サラダは何でもないんだけど、スライスした玉ねぎの水にさらし具合がちょうどいいし、サニーレタスはしゃっきりしてる。妹と、センスいいよね、と言い合った。値段も920円で、お店に悪いくらい。妹は、冷たいタヌキそばを食べた。やはり口取りはついてくる。
 コロナ対策で多分テーブルをへらしたのだろう、各テーブルの間が空いている。透明の仕切りもある。座れてよかった。あとから人が入って来て、すぐに席が埋まった。窓越しに茅が岳も眺め、思いがけず満足のランチだった。 
 午後2時過ぎにお店を出て、「幸福の小径」を下り、武田橋へ。川沿いに彫刻が点在している。もちろん昔はこんな小径はなかった。川の名前も知らなかった。地図を見ると甘利沢川という。韮崎市出身の大村智博士のノーベル賞受賞を記念して、大村博士の通学路だったこの道を整備し、「誰もが心豊かな時間を過ごせるよう」「立体作品」を設置した、とパンフにある。女子美術大学と交流があるらしい大村博士によって提案されたものかもしれない。「彫刻」じゃなくて「立体作品」という言い方に、美術をわかっている感がある。大村博士は、韮崎大村美術館と、そば屋「上小路」と、その隣の風呂屋「白山温泉」のオーナーだという。「心豊かな時間」を故郷にもたらす事業をされたのは素晴らしい。大村博士は写真では、いつも芭蕉のような帽子?をかぶって写っている。粋人として故郷に芸術をもたらそうとする志向は、リタイアした人の見事なお手本になるのではないか。
 幸福の小径を下る途中で、ばっちゃんの店らしい跡を探したが、家が立て込んでわからなかった。西中の周りで唯一の店だった。おばあさんがやっていた。パンと飲みものしか印象にないが、お茶菓子や調味料や牛乳など、日用のちょっとした用を足すお店だったんじゃないか。中学生にとっては、買い食いのお店だった。土曜日曜の部活の帰り、部活のみんなと寄った。パンとミリンダやファンタを買い、店のテーブルとイスに座って飲み食いし、おしゃべりした。
 武田橋を渡る。長い橋だ。冬は冷たい八ヶ岳おろしが吹きすさぶ。川上方向の雪をかぶった八ヶ岳を見て、寒々しい、風はあそこから来るんだ、と思っていた。橋の長さと橋から西中までの長さはほぼ同じだろう、武田橋西詰を起点にコンパスで測れば多分同じだろうな、とも思っていた。
 武田橋西詰近くにあった、妹の友人の家はなかった。妹は、韮崎に行ったらこの友人の家だけ確かめたいと言っていた。道が拡張されて幅広くなっている。道沿いの家は立ち退いたらしい。市役所が近くに移転して来たからだろう。やはり道沿いにあった私の知人の家もなかった。
 雲岸寺・窟観音に行く。敷地に大きな建物が立っていた。前は何があったのだろう。お寺の建物かな。七里ヶ岩を穿つ薄暗いトンネルは、薄暗いままあった。ここを通るの怖かった、と妹が言った。毎年3月末にこの寺でお祭りがあった。今でもあるだろう。屋台が立ち並んだ。蛇女の小屋も2回くらいかかっていた気がする。小学校高学年のころだ。看板からして遊びで踏み入れてはいけないような感じがした。だれかクラスの男子は入ったのだったか。
 あれね、あれは大したことないよ、と男子同士で目配せして秘密っぽく笑っていたか。それとも、あんなの、つまんなかった、と子供っぽく声を上げたか。妄想だな。入りたかったけど入りらなかった。中学になるころには、蛇女の小屋は来なくなった。

 私の旧友の写真館に行く。入り口でこんにちはと声をかける。出てきた旧友に、「私は旧姓○○と言って、中学の時にお友達だったのですが」と言ってマスクをとると、ああ、とすぐわかってくれた。妹と椅子に誘われ、アイスコーヒーを持ってきてくれた。しばらくおしゃべりをする。
 彼女は、店の前で女性の話し声がしたから、また宗教の人かなと思ったそうだ。私がマスクを取ったら「あ、知子だ」と思った、と言った。うれしいことだ。でも彼女こそ風貌は変わらない。
 お元気でしたか、と私が言うと、彼女は一瞬へんな顔をし、元気ねえ、まあ元気っていえば元気、と話しだした。介護している家族のこと、仕事で学校行事の写真を撮りに行った際に痛めた腰のこと、ひょいと外国、しかもあんまり人がいかない国に行っちゃうお子さんのことを伺った。いたって勢いのある話し方で、あとから振り返ると、結構たいへんだなあ、と思うけど、ほいほいこんなことも、という感じで笑い飛ばす。
 街のことも話題にあがった。今は道を歩く人がほとんどいない。韮崎駅前にイトーヨーカドーができて、10年たって契約が切れて撤退した。借金してイトーヨーカドーにお店を持った人たちは大変だ、ということだった。私が憶えている同級生の名を数人挙げると、家業があっても市内の実家に住まないでよそに住む人がほとんどだ。
 妹の趣味は登山だ。古道に着目して案内文を整備し訪れる人を増やそう、という一種の町おこしを知っている、故事来歴を書いた地図などを作っておけば、それを見に人が来る、なにかお役に立たないかしら、と言った。そしたら、彼女が、この先に鰍沢横丁と船山河岸の碑がある。静岡県駿河の方へ続く古い道があった、と用心深く言った。彼女自身はあまり詳しくないが、そういうことに詳しい先生が知人でいるそうだ。へえ、となったが、まあそれはそれで、今すぐどうこうというわけでもない。
 彼女が、韮崎は「コンパクトな街」なんだけどね、と続けた。それが良さだということだ。私は気が付かなかった。そして、彼女は続ける。「り、何だっけ。そうリノベーション」。アメリカヤがリノベーションされて、おしゃれなお店になった。「韮崎じゃないみたい」な体験ができるということだ。
 私たち姉妹は、韮崎にいれば甘利山や茅が岳で足慣らしのトレーニングができるし、鳳凰三山もある。八が岳や瑞牆山金峰山は近いし、昇仙峡の岩場も近い。クライミングジムも北杜市甲府市にある。うらやましい、とさかんに言った。彼女は住んでいても山にはいかないそうだ。
 そして西中に立ち寄ったったことも話した。今の西中には大きいストーブ(と言ったか?)があって暖かい、と彼女は言った。
 寒かったよね。寒かった寒かった、と三人でうなずいた。
昔は小さいガスストーブが教室の前とうしろにあったが、休み時時間になると男子がそのストーブを囲んで暖をとり、あぶれた男子は窓際のロッカーに座って日光浴で背中を温めた。女子は寒かった。私は休み時間になると校舎内を走りまわった、と言った。
 何十年の時の経過がなかったかのように、つい昨日会ったみたいに昔の調子になる、とはこのことだ。リズムが合う。昔の友人や街がどうなったのかを大まかに聞くことができた。街の観察だけでは、途中の経過や人の動きがわからない。
 時計を見ると、1時間半くらい、お邪魔していた。何度もお礼して別れのあいさつをして写真館を後にした。妹が言った。
 ある意味、奇跡じゃない? 
 ホントだね。私を覚えていてくれて、いろいろ聞くことができた。良かったねえ。
 良かった良かった。
それから、話に出た鰍沢横丁の碑まで行った。甲州街道の韮崎宿のここから分岐して、今の富士川町鰍沢宿、そしてその先は富士川の舟運で駿河の国まで、駿信往還の道の起点だそうだ。信州や峡北の年貢米を運んだ。駿河からは江戸へ海運を用いる。鰍沢横丁はにぎやかだったそうだ。今は住宅が並ぶ、車一台がやっと通れる道だ。そこを入り最後は人ひとりが通れるくらいの土手に上がる道を道をぐうっと電動で登って、釜無川の土手の国道20号に出る。この辺りは舟山河岸と言って船着場だったそうだ。
 次は韮崎小学校へ。二つの門柱は変わらないが、校舎と校舎の位置と遊具も変わっている。危険な遊具はない。だが二宮金次郎像は場所を変えてまだいた。校門の外から写真を撮り、喫茶店に入るか、と、駅前通りへ。部活の先輩の喫茶店はあった。外からガラス越しに見ると洋菓子店風に思えた。ではアメリカヤも見るか、と行き、一階の喫茶店に入る気満々だったけど、妹が、「あ、パタゴニア」と言う。駐車場をはさんだ建物にパタゴニアの旗を見つけた。行こう行こうと、ちょっと入ってみる。
 アウトドアの服が置いてある。中古品を扱うお店だとわかった。レジに立つ男性が、「冬ものが多いのですが、2月に買い付けに行ってそれきりなので」と言った。新型コロナの渡航制限が出される前だ。まだ行って帰ってこれた。「いえいえ、でも、2月に行けてよかったですね」と私は応じた。「どこから来たのですか」と問われて、私が、「千葉からです」と答える。新府城でもそうだったのだが、ここでも妹は言わず、微笑のままだ。「東京から」が言いづらいのだと、私はやっと気づく。コロナの罹患者の多い東京から来た、とはわざわざ言えない。東京在住の人は、それだけで気配りをしなくちゃならない。瑞牆山が単純化された線で描かれている、この店オリジナルのTシャツを買った。妹も色違いで買った。
 アメリカヤの二階三階四階まで、階段で上がってそれぞれのお店を見学してまた階段を下りた。確かに、おしゃれ。馬喰町かと思った。馬喰町には古いビルをリノベーションした飲食店や雑貨屋や服の店が多い。一階の喫茶店のドアの前で時計を見るともうあまり時間がない。入らずに、二コリに戻って自転車を返す。
「バッテリーもちましたか」女性職員が気にしてくれていた。「ええ、半分くらい使っただけでした」私はなぜか誇らしげに言った。
 トイレで、汗まみれの服を着替えて5時半過ぎ。お土産を買い、なにかお弁当も、と思ったが、二コリ内のおいしいというパン屋は5時で閉ってしまった。駅のロータリーを見回すがコンビ二もない。駅そばにする。妹は冷たいタヌキそば、私は冷たい月見そば。すすっていると、部活帰りらしい大きなスポーツバッグを抱えた高校生男子が数人入ってきた。常連なのだろう。そば屋のおばさんに声を掛けられていた。6時10分ごろ食べ終わり、駅のホームに上がる。少し高くなっていて、周りが見通せる。東は遠くの茅が岳から手前に街並み、西は甘利山から七里が岩と街並み、うんと手前に線路下のお店などを眺める。頭というか心のなかで、昔見た景色がはっきりしてくる。妹と、よかったね、旧友に会えて話せてよかったね、と言い合った。