10月6日(火)父のいる老人ホームへ面会に

 きのうは、父のいる老人ホームに面会に行った。家を10時半ごろ出て、13時過ぎに老人ホームの最寄り駅に着いた。あらかじめネットで調べておいた店に入ってランチを食べる。お皿がこじゃれていて、見た目が良かった。会計の時、料理を作った人がちょっと顔を出した。緩いところのある感じがして、料理もそういうことか、と気がついた。

 14時から15分間が私の面会時間だ。駅前から歩いて13時45分ごろ老人ホームに着く。入り口で手指の消毒をして、体温を計って、紙に名前と住所などを記入して靴をスリッパに履き替える。フロアの椅子に腰かけて父が来るのを待った。面会は前回から約3か月あいだがあいた。妹は、先月来ている。前にも書いたが、この老人ホームは、コロナ対策で、毎月2週間を面会期間にあてている。一回15分間なのは、一緒にいてもコロナが伝染しない時間とされているからだ。面会期間を知らされた家族は、老人ホームへ電話して日時をすりあわせて予約する。一週間に1回面会できる。
 父が車いすに乗って職員に押されてきた。前回は、相談室という4畳半くらいの部屋で、窓とドアが開けられ、父のそばにある扇風機が私たちの方に向かって風を送るという環境で面会した。換気をして父を風上にするという配慮が行き届いていた。また相談室かなと思ったら、今回父はそのままスルスルと広いロビーの端まで押され、ソファセットの一画で止まった。談話コーナーというらしい。じゃあ、と車いすを押してきた職員がにっこりしてどこかに去った。私はソファに座って、すぐ前の車いすの父に言う。
「元気?知子です。病気が移るといけないからマスクはとらないね」
「まあ、むにゃむにゃ、知子か」
 父は両手で顔を撫でて言った。父の顔色は白い。目はより小さくなって片目が周りの皮膚のしわの中に隠れそうだ。白内障であまり見えてないのだろう。でも皮膚の艶はいい。元気そうだ。
 父は、ゆっくりとあごを少し持ち上げ深く下げてから、私の名前と妹の名前をつぶやいた。そして、またゆっくりあごを上下させてから妹の誕生日はいつか、と聞く。うなずくというより、首やあごの体操をしているみたいだ。私はまず妹の誕生月から、そして誕生日を答える。
父はまたゆっくりあごを上下させ、
「おれは、7月…1日か」と言う。私は、
「7月8日よ、ようか、はち」とやや大きい声で言う。あごを上下させながら、父が言う。
「そうか、むにゃ、俺は1年生まれか」
「4年生まれよ」昭和の年号だ。
「4年、そうか、1年じゃあない」一つ一つかみしめるように、あごを上下させる。わかってうなずくんじゃなくて、言われたことを頭に入れようとしているのかもしれない。
生年にまつわるものとして、干支を聞いてみた。
「ヘビ」父はすぐに答えた。合っている。干支は覚えているんだ。
「そうだよ、ヘビ年」私は繰り返した。

 前回、三か月前、父は自分の誕生日を間違えていた。「だから違うと言ってるだろう、おれは8月生まれだ」と元気に言い張っていた。違う誕生日を記憶に上書きしているんだと思った。高齢者界隈では年は上の方がすごいと言ってもらえるのだろう、だから実際の年よりやや多めに言ってたらそれを信じたのかしらと前回は思った。
 今回は、言い張っていない分、弱気ともいえる。みんなに言われて迷いが生まれたか、あるいは、わからなくなったことが大きくなって、確固たるものが押されて不安定になっているのか。人に聞く余地ができたことは、いいことかもしれない。何を言っても聞く耳持たなかった10年前の父が私の記憶にこびりついている。
 近くにある空気清浄機が女性の声で、「空気の汚れを感知しました。清浄にします」というようなことをしゃべった。ロビーには誰もいない。声が軽く響く。汚れは私たちの吐き出す二酸化炭素だろうか。しばらくすると「空気がきれいになりました」としゃべった。
 私がもうすぐくる母の命日のこと話した。
「今年で10年よ」
「そうか、なかなか行けなくなっちゃって」と父が言った。
「あたしもずいぶん行ってない。行かなくちゃと思っているけど。でも、お墓は墓地の方できれいにしてもらっているから。――リハビリ頑張ってる? 頑張ってよ」私が答える。
「やっている。でも、なかなか足がな。今年の1月に転んで怪我して、右と左で5センチも違う」と父。もっと前に転んで骨を折って、手術してから足の長さが違う。あの時は手術後もまだ歩けていた。今年転んで車いすになった。
 以前は、体の話になるとながながと、腰と心臓も痛くて便秘だし目もよく見えない、医者は言うことを聞いてくれない、医者の薬は選んで飲んでいる、自分で治すと言っていた。
「え、5センチも、大変だねえ」と私が相槌を打ったあと、父は続けなかった。
 私は、子供と妹の子供とそれぞれの配偶者が何をしているのか、いつも言ってることを言い、昔住んでいた韮崎に妹と日帰り旅行したことを話した。昔のことを話すと、大きくうなずくことはしないし、父に思い当たるふしがあるというか、話に乗ってくるようで、頭にしみ込んだ感じが見て取れる。
「〇〇大学はあるのか」
昔づいたのか、急に父は卒業した大学名を言った。
「あるある、立派なビルの校舎が建って、すごいよ。人気があるんじゃないかな」
「そうか、もうないと思った」と父。
「いやいや、あるよ。次男なんか、高校の時、その大学の隣にある予備校の講習に行ったら、大学の食堂でご飯食べていたみたい」私の言葉を、父はあいまいに聞いている。
 向こうから、施設長さんが来た。もう時間だ。施設長さんは、父の車いすを押し始めた。
「あれ、もう終わり?」と父。
「病気がうつらないためだからね、みじかいのよ」と私。
「しょうがないねえ」と不機嫌そうな父。でも、これが普通の父の言い方だ。家族の私は聞き慣れている。不機嫌そうでも、私たちがわりと強く言い返しても、父は怒るまで至らない。理屈が納得されれば、ああそうか、となったものだ。
 父が言ってすぐに施設長さんが、「しょうがないねえ」と苦笑しながら言った。
 父のいつもの不機嫌に、また出た、と笑って父をたしなめているようだし、こうなんですよ、と私に示しているようにも感じた。施設長さんは父の不機嫌をほんとうに字義通り取っているんだな、ちょっと苦労と感じているんだな、とも思った。
 施設長さんは、スルスルと入り口まで車いすを押していく。押しながら「今日はこれからリハビリになっていますよ」と父に話しかけた。わたしは車いすの後をついていく。そして、入り口の靴箱のあたりで父に言った。
「また来るね、じゃあね」
 私は父の顔、中でも目を見ていたが、目がちょっとうるんでいるような、そうじゃないような、目は小さいし、よくわからない。私のことは娘とわかったろうか。