9月27日(火)群馬県世界遺産巡り2日目 田島弥平旧宅、そして中の家・渋沢栄一記念館

きのうは、8時23分にホテルを出発した。
9時過ぎに旧渋沢邸、中の家(なかんち)に着く。駐車場有。
主屋の外に幕がかかっている。内部公開に向けて耐震工事中だ。正門から入って、東門、副屋、土蔵1,2の外観を見ることができる。主屋から敷地の半分くらいは工事の関係らしく柵があって入れない。楷の木が正門入った右にある。「孔子墓所に生える樹の孫にあたるもので、…」「小枝がきれいにそろっているところから、楷書の元になった」というようなことが説明文に書いてあって、驚く。ウィキペディアでは、「楷の木は楷書にちなんで名付けられた」とあって、先に楷書だけど。私の記憶違いかな。へえ、と思って写真を撮った。葉っぱが並んでいると思った。昭和41年に植えられた。比較的新しい。

見学は私一人だ。建物の写真を撮って、門の外に出て、隣接する学校を見て奥 の屋敷神かもしれない祠にお参りする。

正門に戻ってきたら、案内人のような男性がいて、見られましたか、と聞かれ、ハイ外から見ました、と答えた。じゃあ、墓地を案内しましょう、と、正門前の墓地に誘われる。ここまでが、栄一の両親たちのお墓、ここが○○のお墓、ここからが栄一の子や孫の世代。3つにわけられて、一つが二、三列で一列につき7つくらい墓石があったかな。栄一の母、栄一の父、と一人一人墓石がある。夫婦でも一つにまとめていない。栄一の孫子の代以降は家系が絶えてしまったそうだ。栄一は青山墓地の広い敷地の墓に眠っているという。
案内人の人に平九郎の写真も見せてもらった。武家姿で一人で立っている。一枚しか残っていないそうだ。背が高く、西洋風の整った容姿だ。ヘムルート・バーガーを髣髴とさせた。尾高惇忠の家の人は、背が高く容姿が整っていたとその案内人の人は言った。渋沢栄一は153センチで、中の家の人は私と同じように背が低い、と付け加えた。

「直す」って知っていますか、愛人が正妻になることを「直す」という、私も知らなくて教えてもらった。愛人の子供たちすべてを認知して、教育大付属の学校に入れて教育をつけた。財産は分けない「美田を残さず」だったが、誰も悪く言う人はいなかった。昔は認知する人は少ないでしょ、それが全員自分の子として、学校にやった。誰も悪く言わない、笑顔で案内人は繰り返した。

この近くの渋沢記念館に行くといいですよ、と言われ、でも、予約していなくて、と私が言うと、大丈夫、空いていれば、行けば入れますよ、と教えられ、予定していなかったが行くことにした。お礼を言って9時45分ごろ出る。

 

9時50分に渋沢栄一記念館に着く。見学受付で10時から渋沢栄一アンドロイドの講演がある。聴きますかと聞かれ、その気になる。チケットをもらう。二階に上がり、トイレを済ませてチケットを見せて入る。聴衆は私一人だ。一番前に座る。壇上、正面にいる渋沢栄一は70歳の姿らしい。瞼の上がぴくっとときどき小さく動き、目をちょっと細めたりするのがリアルで、ちょっとこわい。チケットをチェックした男性が入ってきて、演題の横に立ち、司会を始めたので安心した。渋沢を先生と呼び、掛け合いで言葉を交わす。アンドロイドの声は、実際の講演の録音から合成したとのこと。それでは講演をしていただきましょうみたいなことを言って、後方にさがったが、ドアを開けて外に出る音はしなかった。居てくれてよかった。

本日の演目は、「道徳経済合一説」を現代風にアレンジしたもの。金儲けと道徳は両立するというもの。口も手も首も動いたがアンドロイド風で怖くない。全身が動かないで目のまわりだけが動くとき怖さを感じる。

10時20分に講演が終わる。

記念館の展示物を見て5メートルの栄一像を見て、
10時45分に出る。

しまむら蚕のふるさと公園に駐車する。歩いて

11時、田島弥平旧宅案内所に着く。廃校になった小学校の建物が案内所になった。見学者は私しかいない。拝見していると係の人が来て、いろいろ話してくれた。田島弥平の成したことが展示されていた。島村勧業会社をつくったこと、イタリアに輸出する蚕種にトレードマークをつけたことなどは、渋沢栄一の勧めだろうと言った。そのマークは、真ん中に絵があって、繭に成虫の蚕が乗っている図だ。自ら商品を持って行って売る直輸出の行程図も面白い。

私の亡父は生前、田島家と親戚と言っていた。今回の旅行は、それがどのような関係か知ることができれば、見付けものだと思っていた。父の自慢話はたくさん聞いたが、ちゃんと聞いたことはなかった。

富岡製糸場などが世界遺産に決まったとき、見に行きたいようなことを父は言ったが、足が悪くて杖を突くようになっていた。遠出は無理だと本人もわかっていたのだろう。それで、世界遺産とそれにつながる出自の自慢話はいよいよ熱心に話すようになった。認知症も始まっていたが、今から思えば、車いすを使わないでひとりで歩けたし、元気だったから、車でもタクシーでも乗せて連れて行ってあげればよかった。親が年を取って弱っていくのは初めてのことだし、一回きりだ。先のことはどうなるかわからない、としか思っていなかった。

案内の人に、田島と親戚らしいのですが、と言ったら、田島姓はいっぱいあります、と「いっぱい」を強調して言われた。父の祖父が林平というのですが、どうですかね、と聞いたら、林平?林平は武平から出ている家だから、と言って詳しく説明してくれた。関係がだいたいわかってよかった。

詩人の高良留美子の母の高良とみの母方が田島弥平の家系ということも教えてもらった。

12時15分に案内所を出る。
日が照って暑い。
田島弥平旧宅―-桑麻館――進成館――栄盛館――有隣館――對青盧を周る。駐車場に戻って13時。

日本キリスト教団島村教会・めぐみ保育園舎に着く。車を道に停めて、外から写真を撮る。こんにちは~、何をしているんですか~、と遠くの園舎の園児から大声を掛けられる。写真を撮っているのよ~、もう帰るからね~、と大声で答える。不審者だったか。

Google地図を見て、近くに蕎麦屋があるのを見つけ、行こうとして細い農道を何度も曲がる。やっとたどり着いて、車を敷地に入れたら、お店の中から細身で背が低めのショートカットの女性が出てきて、お休みなんですとすまなそうに言った。これ良かったら、と名刺を差し出して、車のナンバーを見、あらわざわざ遠くから来てくださいましたのに、とまた本当に申し訳なさそうに言った。名刺をもらった。いえ、近くまで来て地図で見たものですから、と私は言う。そちらへは、こちらから蕎麦を食べに行くくらいですよ、と店の中のお母さまとおぼしき人が掃き出し窓越しに言った。なにかこの辺でお店をお探しですか、麺類がいいですか、女性にと言われて、蕎麦の口だったけど、いえ、にぼうとうでも、と名物を言ってみた。弥平旧宅の案内の人が、山梨の「ほうとう」はありゃ「にぼうとう」だと言っていたのにちなんだ。そうしたら、女性が店の中に引っ込んだかと思うと出てきて、にぼうとうを提供する店の深谷市の地図を渡してくれた。お礼を言って、離れた。地図によると、一番近くの店でももう少し行かないといけない。おなかが空きすぎてそんな余裕はない。Googleマップで見てコンビニに入った。

13時30分サンドとサラダをたべてヨーグルトを飲む。ひとごごちつく。
13時50分出発

14時世良田東照宮に着く。大昔に来たことがあるが、ほとんど覚えていない。流鏑馬をするようなことを聞いたような気がして、でもどこでするのだろうとできそうなところを探してみたが、よくわからない。駐車場の脇に、「下馬 乗馬での御来宮者は、こちらにお繋ぎください」と立札があって、 H形の柵があった。多分自転車用だと思うけど、ほんとに馬だったら楽しい。
14時10分出発。

14時30分焼きまんじゅう忠治茶屋に着く。先客が4組くらいいて、それぞれ注文を受けてから焼くものは焼いてから出すので、少し待つ。焼きまんじゅう2本とアンコの炭酸まんじゅうを買った。このあたりのソウルフード?の焼きまんじゅう。「助平や」の焼きまんじゅうを買いたかったけど、ネットによると月曜日は休みだった。

14時50分出発。Google先生のナビで下道で帰る。

18時30分帰宅。