12月17日(木)「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」展

きのうは、「石岡瑛子  血が、汗が、デザインできるか」東京都現代美術館を観た。 

 石岡氏のパルコのポスターは、子供だった私に、この向こうに肥沃な土地のあることを示してくれた。肥沃な土地というのは、ファッションと文化のイメージだ。パルコの戦略にそのまま引っかかったのだけど、私は目を瞠った。ドミニク・サンダやリサ・ライオンのポスター、レニ・リーフェンシュタールのヌバもよかった。映画ドラキュラの衣装は映画音楽、筋、俳優、の中で際立ていて、特に筋肉を模した甲冑はよく覚えている。山本海苔のパッケージも好きだ。石岡氏と家族の協働デザインだったと初めて知る。
 氏のデザインは、気持ち悪さと紙一重のような形態もある。硬質で、グロとエロを排除し、洗練とリッチさで押し切った。

昔から気をひかれたものをデザインしていたから、今回観たわけだ。

ーー国際的に活躍するデザイナーたちの「デザインとは社会に対するメッセージである」に大きな影響を受け、将来の道を定める。

 

ーーデザインとは、「自己を語る言語である」と石岡はいう。ひとつの創造のために集まった集団が「国を超え、人種を超え、性別を超えたところに存在するゴール」に向かって突き進むなかで、個人のアイデンティティをいかに提示するか。石岡はこれをデザインの課題とし、その方法を研ぎ澄ましていく。

ーーしかし石岡のデザイナーとしての関心は一貫して、人間の身体をカンヴァスに。その可能性の無限の広がりを表現することにあった。

  デザインって何だろうと思う。きれいな形態を見るのは好きだし、惹かれる。一点物と違い、いくつも作られ同じものが社会に流通する。デザインは啓蒙の意味がふくまれる。デザイナーにとって、デザインはアイデンティティを提示する言語だろう。デザインを享受する方は、取捨選択がアイデンティティの提示になるだろう、か。デザインを身の周りにおいて、でも、かりものというか、核ではないと感じてしまう。デザインは、心を動かすきっかけかな。私がそういうふうにできている。差し迫っているときは、デザインにこだわる余裕がない。


 自分を表現するという意味では、取捨選択もそうだな。

スタイルーー様式、やり方、形式、文体、考え方、姿勢、恰好、身なり、型、デザイン、流儀。

自分のスタイルと、自分。自分のスタイルだけでは自分を表せない。スタイルに収まりきれない。