講談社、『子母澤寛全集25巻』に収録の、ふところ手帖、続ふところ手帖、近世遊侠ばなし。聞き書きから成されたと思われる仕事。この巻ではないが、「新選組始末記」も、新選組生き残りの古老に聞いた話から成る。大正時代にはそういう人がまだ息災だったというのは驚きだ。
国定忠治、大前田栄五郎、飯岡助五郎、清水次郎長など、実在の人物とは思っていなかった。
巻末に、司馬遼太郎との「対談 幕末よもやま」が掲載されている。P495
「司馬 ―――つまり、植物採集とか昆虫採集とかいう、科学の方の分類学とか形態学とかいう方法を、違った分野で使ったのが民俗学、柳田国男さんとか、折口信夫さんの民俗学でございますね。それと同じ方法で採集して回られた。新選組という、いまは幻のようになっているものを、その痕跡、その他少しでも生き残っているものがあれば、一つずつ採集して回られた。珍しいお仕事でございますね。先生を前にして答えさせるのは無意味ですけど、やはり時代的にいって、影響がございますでしょうか。民俗学の…。
子母澤 いえ、とんでもないですよ。わたしはただ怠け者ですからね。自分で勉強しないで人の話を聞いている方が気楽だから、そういう方法をとったわけですよ。
司馬 ですけれど、採集しただけでなくて、その選択がえらく働いております。そのときの驚きというのがずっとあって、―――」
大正7,8年より前くらいから、幕末を生き残った人に話を聞いていた。P496
「子母澤 事柄そのものに対しては関係がないが、それを判断するのに有利な年寄りがいましてね。」
聞いて、当時の生活、営み、見方を判断した。
子母澤作品の中で、会話はどこまでが聞き書きだろう。
小野和子著
『あいたくて ききたくて 旅に出る』は、出かけて行って、土地の老人にお話し(民話)を聞いて回る採訪を綴った。お話を通して、話し手の人生や人柄を受け取り、思いを巡らす著者の心映えに心をうごかされる。聞く側の修行の旅のようにも思える。
NHKラジオ、高橋源一郎の「飛ぶ教室」にて、いとうせいこうの「東北モノローグ」が紹介された。震災後10年以上たって、東北の民話の語り手たちが、震災を民話の語り口で語った、ということ。
聞き書きには、何かある。小説、民俗学、民話、そして、社会学か。アートの側面もある。