10月9日(金)高齢になること

 きのうは、年を取って死ぬことから思いが広がっていった。
 親の死は、死について考えさせる、子供へのプレゼントだ。教育ともいえなくはない。教えて育てる。子供自身の死の準備の指標になる。だから、私が死ぬこともなにがしか子供の足しになる、いいではないか、と思った。
 こんなこと思うのは、私に子供がいて、親が高齢だからだ。子供がいない人は多くいるし、親が若くして亡くなる人もいる。親が早くに亡くなったら、未成年の子供は生活や人生に大きな影響を受ける。
 高齢になって施設に入ったり足が悪くなって出歩けなくなったら、親しい友人とは疎遠になる。これからはzoomなどで話はできるから少しはいいか。でも、友人も亡くなったり話ができなくなってきたりする。
 高齢者は、自分でなんでもやれなくなってくると、友達と会ったり好きな服を着たり好きなものを作って食べたり好みの物を回りに置いて生活するという、自分のありのままの生活に人が介入して来る。そうすると、自然な自分の姿の発信が、自分からでなくなってくる。見られること、されることが増えていく。
 人の解釈にだんだん押されてきて、人の解釈に自分の中心がとって替わられられる。人というのは、家族も含まれるが、どうしたって下の世代で、自分が生きた時代の機微を知らない。流通している最大公約数で物を言うし考える。
 たとえ下の世代でも信頼の置ける人がいればいい。周りの考える自分でもいいや、と思える。けれど、そういう人がいなかったら、自分の考える自分に固執し、理解されないと思い、不機嫌になるだろう。


 もし、の場合がいっぱいあって、人それぞれ、病気も環境も一概には言えないな。

 

 自分が長生きするの前提で、おこがましいのだけど、年を重ねていって、いとしいと思う人がだんだんへっていき、いなくなったら、私はどうするのだろう。
 こどものころは「いとしい」など思いもつかず、成長するのに忙しかった。たぶん思春期から芽生えた。年を取ると子供に戻るというが、ひとに影響されなくなるし、自分のことで精いっぱいになる。「いとしい」という感情は高齢になったら薄くなるのだろうか。