6月11日(日)Terra とパラダイス・ロスト

きのうは、午後2時ごろ、13枚を脱稿する。結局、いい題名が浮かばなかった。メールで送った。

支度して出かける。日本橋駅で降りる。高島屋、ヤエチカ。スープストック東京「黒酢とクレソンの肉団子入り中華スープ」の仙台麩、オアゾ丸善で、福間健二さんの『休息の取り方』。


18時30分ごろ、国立映画アーカイブに着く。予約で全席埋まって、当日券は無いと受付に書いてあった。ツイッターでこの映画のことを知った。一昨日予約しておいた。

19時から「Terra」を観る。監督:鈴木仁篤、ロサーナ・トーレスポルトガル映画。寝不足で、途中でうとうとしてしまった。最後のシーン、画面上半分が空で下半分の大地だ。空にはすじ雲が刷毛で掃いたようにある。全体が薄紫色から次第にモノトーンになって雲が白く光っていく。大地は、なだらかな土の丘だ。手前から左にカーブして奥に続く道が、ライトに照らされたと思うと車が走っていく。少しあって、向こうからも車が来て走り去る(ここは記憶があいまい)。空に、鳥の鳴き声が響く。Vの字に編隊を組んで群れが左から右に飛んでいく。また、Vの字の編隊が同じ方向へ。今度は二つの編隊がやはり同じ方向に飛んでいく。

ひとところでじっくり観る。小細工をしない。選びぬかれた時とカメラワークかもしれないが、起こることに任せて開放しているように思う。その覚悟のようなものも感じた。

 

映画が終わって、出口へ向かうのに列になって、ゆっくり進んでいるとき、K子さんが近くにいるのに気付いた。彼女のツイートを見たから来たのだ。小さい声でお名前を呼んだ。エントランスで少しお話ができた。

一緒に悲しむことくらいしかできない、お力になれないと思ってしまっていた。今思うと、それでも、もう少しお話ししたかった。

午前中「パラダイス・ロスト」のパンフレットとチラシを読んでいた。

監督の福間さんは、死者の眼差しを感じ、生死を超えて、「いま」を生きる、と映画について書いている。役割が替わってしまったことに、胸が衝かれた。

 

福間健二監督作品『パラダイス・ロスト』2019年 のチラシ。

生きる場所の再発見

パラダイス・ロスト。ミルトンの大名作『失楽園』の原題が頭に浮かんだ。同時に、木下夕爾の詩「死の歌」と原民喜の遺作短篇「心願の国」をかさねあわせて見出していた、この世の外に追われる死者の、地球への思いも。

ひとりの死者が自分の去った世界を見ている。そのイメージ。映画にも詩にもある客観の視線。だれがそれを見ているのかという昔からの問いがある。そのひとつの答えになるのではないかと思ったとき、『パラダイス・ロスト』は動きはじめていた。

この地上、この世界。うまく行っているように見えていたことも音をたてて崩れている。パラダイスを夢見ることはもうできないのだろうか。生と死の境界をこえる視点から、幻想的かつリアルに、「いま」を抱きしめたいと思った。私たちの生きる場所を再発見するために。

 

〈私たちは生きる。死者のまなざしを感じながら。〉