8月10日(木)デヴィッド・ホックニー展 東京都現代美術館

きのうは、デヴィッド・ホックニー展に行った。東京都現代美術館。予約チケットの指定が日にちだけになっていた。以前のように時間の指定はない。
10時の開館と同時に入る。「スタジオにて、2017年12月」という写真作品の中に、三脚の上に開かれて置かれているホックニーの絵らしき画集が写っている。そして展示された作品の右横に、同じような画集が開かれて同じ色の三脚に置かれていた。嘘くさいほど大きい画集だ。屈んで下から表紙を見上げたら、図書館票が張ってある。そこにいた監視員に聞いたら、美術館の図書館の本だそうだ。三脚も図書館のものということで、驚いた。存在するし持っていたのね。

カタログの文章による、「特定の動向に与することなく自らの表現を切り拓こうと」して来たその初期から今までに至る作品を見渡せる展覧会だ。「どのように描くのか」の探求を続け、「徹底して絵を描いてきた」ことに感動した。
2010年からiPadで、毎日、窓と窓から見える景色を描いている。iPad が画材たりうるということと、毎日描くということが、両方すごい。
iPad絵は光の色としてモニターで見るのが一番彩度が良いと思う。でも、紙にプリントされていても、うまいと感心する。目は子細に線や色を追って鑑賞している。たとえば、エッチングでは線はひっかいた痕跡だろうと思わせるしシルクスクリーンはインクが乗っているというマチエールはある。iPad絵を鑑賞していいなあと思うのは、モニターを通してみることに慣れたのかな、いや、筆跡はある。想像し何かを掻き立て深い印象に残すのに、作者の行為の痕跡やマチエールやはそれほど重要ではない、ということなんだろうな。

 

興味が引かれたのは、「逆遠近法」と多視点だ。作者は、自然主義的に描けば描くほど、実物から離れていくということに気が付いて、探求していってそうだ。中国の巻物や、タペストリーを参照した。そして、舞台美術にたずさわった経験から、観者の見る経験を取り入れた。「逆遠近法」は遠くにいくと大きくなる。見る人が遠景の方に行ったらこう見える、ということじゃないかと思う。
多方面からの視点は、敬愛するピカソの立体派という先鞭もある。一点透視図法より、いろいろな方向から見た形の方が、リアルに感じる。

「鑑賞者はあたかも作品の内部に足を踏み入れ、絵画空間を逍遥するように、時間の流れが感じられる経験に身を投じることができる。」とカタログの文章にある。

友人たちとのラインのトークで、「補間する」という言葉があった。写真と写真を繋ぐとき、不自然にならないように、間を埋める画像処理をする。そういうアプリが今はあるそうだ。補間とは、数学のデータに対して使われる非常に限定的なことばななので、「不十分なものを完全にする」という意味の「補完」を使う。
繋がりのないものでも、脳が補完をしている。普段働く補完機能を作用させた方が、かえって本物らしく思わせる。経験を統合する作用と言ってもいい。
見る人に絵画を経験してもらうために、立体派の多視点を取り入れた、というようなことだろう。

 

 興味は、小説における多視点が念頭にある。マイケル・オンダーチェの「ライオンの皮をまとって」を読んで、頭の中で言葉が響いた。「響く」は「音が反射して伝わる。反響する。」[広辞苑]という意味だ。おなじ出来事を違う登場人物の視点で重ねて描かれているからだと思う。解説で、立体派と言われていた。そもそも小説は補完で成り立っているかもしれない。