10月13日(火)慣習の中の格差

 きのうは、おしゃれカフェに夫と行った。古い納屋をリノベーションした店だ。漆喰なのか、塗り跡を残した白い壁、天井まで塗られている。明るいし、気密性もあるからいい。梁はむき出し。梁は製材していない木だ。自然に育ったまま曲がっている。それが短い縦の木(小屋束というのか)が挟まったり、梁と垂直方向の棟木にピタリと組まれている。こういうのを見ると、夫のお十八番が出る。

 ――昔の人はすごい技術だよな、曲がりも計算して合わせている。
 ――あとからリノベーションで手を入れているんじゃないかな。
 ――違うよ。あとからはやってない。
 ――あっ、あそこ、切って木を入れている。
 ――最近は、構造上、法律で、やらなくちゃいけないんだ。
あとからしてるじゃん。前言を覚えてないのか。どこまでもパワーを向けられる。
 ――構造計算だね。
 私は話を合わせた。

 私は「そうだね」を夫に多用する羽目になる。夫は「違うよ」、「いいよ」を私に多用する。「違うよ」と言われたら「違うよ」で返したっていいのにそうしないのは、話を続けたいからだ。「いいよ」って、言われたってしょうがない、別に許可をもらうつもりはない。

「さすが、しらなかった、すごい、センスいい、そうなんだ」の、さしすせそ。「男性が喜ぶ褒め言葉」となっている。あるいは、「ビジネス会話で役立つ言葉(男性相手だろうか)」。へりくだる感じ。きちんと認めて褒めるというより、空疎でもとにかくおだてるという感じだ。女性が言われたら、喜ぶだろうか。いや、一般的にはわからない。私は喜ぶだろうか。思い当たる節があったら、喜ぶ。空疎なおだてとわかったら、それくらい当然、うれしくはない、というところだ。

へりくだらないで、褒める言葉がもっとないかな。へりくだる感じが出るのは、使う人の関係に格差があるからかな。慣習の中の格差。だんだん時代が進んで、国内でも、昔からあるのに見えなかったものが見えるようになってきた。